カテゴリー「中越地震・災害」の13件の記事

ありがとうの日2014

2014年10月26日作成

 庭の山茶花が秋の陽射しを受けて咲いております。
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                                     蜂が忙しそうに飛び回っておりました。

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                 中越地震から10年が経ちました。
           今年も(旧)川口町に立ち寄ってみました。
              (旧)川口町の思い、少しだけ伝えます。

【2014年10月24日の(旧)川口町】
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           ほんの一部でございます
                まだまだ沢山の「ありがとう」でございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・忘れません!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


              ご来訪ありがとうございました 
       (追記、この黄色いフラッグは今年が最後だそうでございます。)

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忘れません

2013年 10月25日作成

中越地震から9年が経ちました。
今年も『ありがとうの日(10月23日)』がやってきました。

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     10月22日、長岡に出掛けた帰りに
         (旧)川口町に立ち寄ってみました。

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   少しだけ、川口町の思い伝えます。
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     伝えられていきます
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               忘れません!
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     ほんの一部でございます。

        たくさん
                たくさん
                        「ありがとう)」でございます。

       ・・・・・・・・・おしまい・・・・・・・・

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たんぎゃま

2013年4月30日作成

         津南町役場前の桜も、ようやく咲き始めました。
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                  (4月28日撮影)
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【せぎ普請(水路整備)】
   4月28日は地元集落のせぎ普請でございました。
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          なぜか今年は土砂が少なく
                   順調に進みました。
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             一応上流で水を止めてあるのですが、
             このように軒下にはたくさんの残雪があり、
             それらの融けたものが流れ込み、また前日の雨もあり
             川の中の水はいつもより沢山流れております。
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        水路の中から見上げる花でございます。
            はい、道草・・・道草・・・
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               予定以上に早く終了してしまいました。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

【たんぎゃま(田麦山)】
   たんぎゃま(田麦山・旧新潟県北魚沼郡川口町、現長岡市。中越地震の被災地)

 はやばやと『せぎ普請』を済ませ、
    M先輩から遊びにおいでとご案内いただいていた
         『田麦山自然塾』へ出掛けました。
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         すでに始まっております。屋台村が出来ております。

         まず、焼きそば(200円)を食べ
         次に
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          トン汁、おにぎり付き100円
           おにぎりは幾つでも・・・・トン汁お代わり可・・・・って
              そんなに食べられません。
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         何しろ次は天ぷらそば(てんぷら幾つでも・・・)400円
            お腹いっぱいでございます。
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     お餅に、岩魚の塩焼きに・・・・・・・・・
                  食べ切れません。

【雪どよ(雪樋)】
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      久しぶりに見ました昔の「雪どよ(雪樋)」でございます
      我家で使っていたのはこの2倍近い長さがあったように思います。
      内側に蝋を塗り、滑りを良くしてあります。
      内側にトタン板を貼り付けたものもありました。 
      (雪のない季節は、このように靴脱ぎにも使えます・・・・・・・?)
      我家では、現在樹脂製の波板に金属の枠を取り付けて
      雪どよとして使うことがあります。
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        雪どよの裏側でございます。
        横木がちょうど滑り止めの役を果たします。
    (雪のない季節は、このように屋外テーブルとして使うことが出来ます・・・・?) 

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            フォルクローレの演奏があったり
            結構盛り上がっておりました。
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     なんと説明したらよいのかわかりませんが
     中越地震の被災地としての田麦山と東北地震の被災者の方と
     ボランティアの方々と・・・・・・・いろんな方の交流会ということでしょうか?    
    (ま、私よくわからずに参加しましたので。違っていたらすみません))
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           土筆も出てました
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          カタクリも咲いていました
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      シートに寝転がって
         ポツポツと開き始めた桜と
            足早に流れてゆく雲を眺めながら
               しばし まったり 過ごしたのでございました。

         案内いただきました M先輩 有難うございました。

     田麦山では自然塾のほかにもロードレース等いろんなイベントが
                                 
                        企画されております。

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おしまい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

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ありがとうの日

2012年10月23日 作成



       (  注、  今回は 中越地震関連の記事です。   )





      長岡の帰りに、中越地震から8年目の川口町(現長岡市)に寄ってみました。

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               ほかにも沢山・・・・・・

                                ・・・・・・・・・・・・・・おしまい・・・・・・・・・・・・・・

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ありがとうの日

2011年10月26日 作成

            秋でございます

     

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     裏庭のススキでございます。
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7年前の10月23日に中越地震がおきました。

昨日(25日)、長岡に出かけた帰りに、
   旧川口町(現長岡市)を通ってきました。
        時間が無いので、写真に撮ったのはほんの一部ですが・・・・・・

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   家々の玄関や軒下に沢山の「ありがとう」が・・・・・

   10月23日は「ありがとうの日」でございます。
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       街中に
            いっぱい
                  いっぱい
       ありがとう  でございます・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おしまい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

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被災お見舞い申し上げます

2011年3月17日 【追記・一部書替え】

 この度の、東北関東及びその後の各地における地震により

被災された方々にこころよりお見舞い申し上げます。

 また、3月12日の長野県北部における地震の際に

ご心配いただいた皆様に感謝いたします。

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2011年3月12日 14:12 作成
 今朝ほど、当地(新潟県津南町)では震度6弱を始めかなり強力な揺れが何度もございましたが、
今現在は、母も私も無事でございます。
普通(?)に自宅で食事をし、テレビを見れる状態でございます。
 本棚が倒れたり、PCやプリンター(2台)、予備のHDを
載せた棚が倒れたりしましたが、その程度の被害でございます。

 現在は、ただ様子を見るしかございません。

皆様もお気をつけください。     越後屋拝


【追記】

3月13日午後追記

 余震も大分落ち着いてきたので、

午前中に、隣村(長野県栄村)の避難所へ

知人(の母上)を見舞いに行ってきました。

X1iiyamar      県境付近では、飯山線の線路が壊れておりました。

      復旧には相当の時間を要するものと思われます。

X2trans      我が家から十数キロしか離れていないのに

     震度6強(栄村)と震度6弱)(津南町)ではずいぶん違うものでございます。

     (それでも避難所には、電気が通じており、暖房も効いておりました)

X3house         中越地震のことなど思い出すと、

           胸がキューッとなります。

        これ以上被害が拡がらないことと、

           復興をお祈り申し上げます。

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ありがとうの日

2010年10月24日作成

水害にあわれた奄美大島の皆様に
  こころよりお見舞い申し上げます

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・・・・・・ところで・・・突然ですが・・・・・・

10月23日は「ありがとうの日」でございます。
(法的根拠はございません・・・・・・)

2004年10月23日17:56 新潟県中越地方で大規模な地震が発生いたしました。

沢山の方が被害に遭い、68人の方が亡くなりました。

そして,沢山の方々からご支援いただきました。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一昨日(10月22日)長岡に出かけた帰りに
震源地であった旧川口町(長岡市と合併)に立ち寄ってみました。

毎年同じような写真で恐縮ですが・・・・・・・・・。
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   (長岡市妙見地内) 
   道路が崩壊し、皆川優太君母子が車ごと埋まってしまった現場付近でございます。
               合掌 
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以下,2010年10月22日昼頃の、震災6年後の旧川口町市街地の写真でございます。

      あっちを向いても・・・・・・・こっちを向いても・・・・・・・・・・・

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                ・
                ・
          以上,ほんの一部でございます 

       街中が 「ありがとう」でイッパイでございます

       心配してくれる人がいる
       それだけでも心強いものでございます

       私からも ありがとうございます !

  (中越地震に関するその他の記事は,カテゴリー『中越地震・災害』
  その日のことはこちら→『中越地震1(その日)』 をご覧ください。)        

            

               おしまい

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10月23日

2004年10月23日 17:56 M6.8
中越地震が発生してから
5年が経ちました。

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      10月23日   川口町にて

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          山古志村は既に長岡市と合併し

          川口町も長岡市と合併するそうです。

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  心配してくれる人がいるというのは

      とても心強く、

         ありがたいことでございます。

おしまい




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中越地震2(翌日から)

記事「中越地震1(その日)」の続き
中越地震(翌日以後10月24日・25日〜)
(10月24日)
 朝,台所の割れたガラスを片付け,割れた窓にブルーシートを打ち付け,とりあえず塞ぐ.一応業者さんに修理依頼をしておく.
家の周囲,仕事場の周囲、内外の損傷状況を確認する.建物については台所のガラス1枚破損と仕事場建物の基礎部分のタイルがはがれていたくらいで、目視の範囲では大きな被害なし.建物内部については食器棚の食器や本棚の本等が落下している程度で机の上のデスクトップパソコンやテレビは被害なし.

 午前中家の中の片付けをし、午後からYANAさんに付き合ってもらい私の自動車回収に向かう.道路の改修作業が始まると道路脇に止めた私の車が邪魔になったり,回収困難になったりする可能性があるからです. 前夜通ってきた道(信濃川西岸)を行ってみたのですが,小千谷市の真人(マット)から先は通行止め。戻って旭橋に向かうもこれも通行止め。結局妻有大橋まで戻り、ようやく国道117号線(信濃川東岸)に入る.小千谷に向かって進むも「魚沼橋」でやはり通行止め。北側の橋詰で道路が半分位崩壊している.放送局の車と地元の消防団の間で「通せ」「通せない」で押し問答している.メディアが早く,多くのことを伝えてくれたことの効果は非常に大きかったと思いますが,「通せ」「通さない」の押し問答ではメディアはかなり強引だったように感じました.
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(魚沼橋から見た川口町方面への道。今年になってようやく復旧しました。)

 魚沼橋の南橋詰付近の道路脇にYANAさんの車を置き、歩いて橋を渡り,昨日私の自動車を乗り捨てた場所に向かう.池ケ原まで来たとき,「ドスン」と下から突き上げるような大きな余震がありました.集落の人たちは前日のビニールハウスに避難していましたが,ビニールハウスの隣に重機で溝を掘っていました.トイレです.非常に団結力が有り,どんどん状況に応じた対応をしている所はすごいと思いました.集落を過ぎ,坂を下ると私の車が見えてきます.

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(こんなのは序の口)





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(はるか遠くに,私の車が見えます)







 田んぼの中のあぜ道を遠回りして何とか私の自動車は回収することができました.(魚沼橋は帰りには片側だけ通してくれました.)


(10月25日〜)
 十日町の社会福祉協議会のNさんに電話してみたらボランティアセンターを立ち上げるというので、午後からお手伝いにいく.「片付けのお手伝いをします」というビラを配ったりしましたが,まだ避難勧告が出ている状況なので,被災者はそれどころでは無かったようです.ボランティアセンターの受け入れ態勢を作るのが先決のようでした.
 十日町・川西地区は上下水道が破壊された所があるので,水汲み用のポリタンクを知り合いのために用意しようと思ったのですが,ほとんど売り切れでした.蓋付きのバケツや濡れティッシュ、乾電池、ホッカイロ(携帯カイロ)、子供用のお菓子などを用意し,何件かの知り合いに配達しました.

(おにぎり)
 何日か十日町のボランティアセンターに通い、ボランティアの人たちの送迎や炊き出しおにぎりの配達をお手伝いをしました,全国から沢山の人たちがお手伝いに来てくださる.ありがたいことです.炊き出しのおにぎりの箱(ダンボール箱)を見ると「木島平村」「野沢温泉」・・・・それはもう感動ものでした。私が頂くものではありませんが,思わず(今度(木島や野沢で)何かあった時には必ず恩返しするぞ!!)と,一人熱くなっておりました.遠く関西の方から沢山の方がお手伝いに来てくださったのも同じような想いだったと思います.

(10月29日)
 確かこの日から仕事を再開しました.とりあえず長岡まで行かなければならないのですが小千谷市も川口町も通れません.まず十日町に出、一旦旧松代町に向かい,そこから岡野町に向かい、それから柏崎市に出、そこから長岡に向かいました.山の中ばかりで、所々片側交互通行が有り,崖の下で一時停止させられたときは(ここで余震が来たら谷に押し落とされて助からないだろうな・・・)ヒヤヒヤすることしきりでした.

《その他気づいたこと等》
(話を聞く)
 地震から1週間ほど経った頃から、被災地の知人に毎晩電話をかけました.この頃になるとかなりの人が自宅に帰っていたからです.1日に1人から2人程度「どうだった?」様子を聞きました.皆共通しています.話し出したらほぼ一方的に話つづけます.短い人でも20分から30分。一番長い人は3時間半ほとんどしゃべり続けました.まるで溜まっているものを吐き出すように・・・・・。そうです、ストレスの溜まっている人は吐き出すように一方的に(失礼)喋りつづけることがありますけど,それと同じです.ずいぶん皆さんいろんな体験をしたようです.でも、多くの人がしゃべり終わったあと,「聞いてもらったら,何だか落ち着いた」「聞いてもらったらすっきりした・楽になった」・・・と言ってくれました.私はほとんど聞いているだけでしたが,それでよかったと思います.(話を聞くだけでも役に立つことがあるんだ・・・)と改めて思いました.

(便りの無いのは悪い知らせ?)
 同級生のMは、小千谷付近の高速道路を走行中に地震に合い、路肩に寄せようとしたところ、路肩と走行車線の間に割れ目が出来、しばらく割れ目を跨いで走行したそうです.ようやく高速道路を降りたのですが十日町方面に向かう道路が通れません.そこで被害情報の無い川口町に向かいました.(実は川口町の震度が一番強く地震情報送信システムが壊れていた)周辺に強い地震情報があるのに情報の無い地域が有ったらそこが一番被害の大きい所だと思った方がよいようです.彼は結局川口町までたどり着いたものの進退窮まり、車の中で泊まることになりました.翌日歩いて帰宅です.

(×印)
 地震のその日、小千谷市内通渦中に障子戸の各格子の中が全部×印に破れたのを何軒か見かけました.その時は(小さな子供がいるのだろう)と思いましたが,翌日も何箇所かで見かけました.そしてようやく気づきました.障子戸(枠)が大きく歪んだため、すべての升目が均等に×印に破れたのです.ちなみにシャッターの下の方はガイドから外れて外側に飛び出しているのが多かったです.

(盛り土)
 橋は、私の見た範囲では壊れたものはありませんでしたが、橋詰の部分の土が圧縮され、段差になって通行できない所があちこちにありました.また道路の盛り土した部分はかなり陥没・崩壊しておりました.人工的にどんなに圧迫して押し固めても、土止めしても、自然に堆積した地盤にはまったくかなわないようです.

(屋根)
 瓦屋根の家の被害が大きかったように思います.単に瓦が落下しただけではなく頭が重いため「ダルマ落し」状態になり,小屋組の部分がずれてしまい(4隅の通し柱が折れて)「全壊」になった家もありました.昔から「地震が来た時のことも考えて、屋根の雪下ろしは早めにやっておけ」と言われていたのですが,ほんとにその通りです.屋根に雪が乗っている(トップヘビー)状態の時に地震が来たらひとたまりもありません.あの地震が1月・2月に起こっていたら,人的被害も建物被害も1000倍・1万倍になっていたことと思います.建物倒壊だけではなく、火災発生・消火不能・避難時の寒さ等による二次災害・・・・・・・。その後,以前よりはこまめに屋根の雪下ろしをするようになったのはもちろんです.(*雪の重さについては、カテゴリー「雪国」の中で比重の計測をしてます。興味のある方はそちらをご覧ください。)

(トイレ)
 近頃のトイレはほとんど水洗式です.したがって上水道と下水道の両方が機能していないと使えません.ところが地震の時この二つが真っ先にやられます.そして復旧に非常に時間が掛かります.地震の時のことだけを考えると「汲み取り式」の方が強いようです.地震の時の避難場所には「汲み取り式トイレ」を用意すべきだと思いました.食べ物や水は1日2日我慢できますが,トイレはそんなに我慢できません.(実際は、地震後かなり早い時期に各地に簡易トイレが配置されていましたが,道路が遮断された場合容易に搬入できない地区も発生します)現在、我が家では便座に取り付けるビニール袋(脱臭剤入り)を用意しています.(建物が残っていなければ使えませんが・・・)

(電話)
 携帯電話の電池はすぐ切れてしまいます.自動車の中にグリップ式の発電機(充電器)があって幸いでした.現在は同じものを自動車の中や自宅や非常用ザック中に入れてあります.なお,固定電話は、大きな地震の直後は、皆、戸外または避難所に避難していますので,すぐにはでれない可能性が高いと思います.呼び出し音がなっている事によって電話回線が残っていることくらいは確認できるかもしれませんが,その辺は電話会社に聞いてみてください.171番を利用しましょう。

(非常灯)
 その後我が家では,「停電になると点灯するライト」を何ヶ所かに配置してあります.暗闇の中ではパニックになり易いと思うからです.

(電気)

電気が来ないと、携帯電話の充電もできませんし、電話機も使えなくなってしまうものがあります.もちろん、IHヒーターも使えません.

(プロパンガス)

地震当時,我が家はプロパンガスを使用していました.

都市ガスの場合,復旧に時間がかかりますが,プロパンの場合,

すぐにでも回復できます.又,ボンベとコンロさえあれば

避難場所へ持ち出すこともできます.

 トイレも電気もガスも、配管(配線)の少ないもの(独立系)の方が被害が少なく、復旧も早いようです. 

(PTSD?)
 1、ふと、お尻の下が揺れたような気がして、周囲を見回す.気のせいのようです・・・.地震後そんなことがしばしばありました。
 2、地震でこわれた建物や地震の痕跡、他の地域の地震や津波のニュースを見聞きすると、胸がいっぱいになって涙ぐみそうになる(情緒不安定?).
他の人に聞いても人によっては同じような症状があるそうです.1年くらいこの症状は続きました.今でも地震のニュースを耳にすると胸が「ぐっ」となります。

以上,私が個人的に体験した範囲内での,個人的な感想に過ぎません。念のため)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2008年10月17日の川口町にて

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私からも   あ・り・が・と・う!!!!!  

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中越地震1(その日)

中越地震1(その日)   (ちょっと前の話)

2004年10月23日   

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その日の朝
YANAさんと私は
鳥海山の湯の台登山口にいました















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上部は雪が降ったらしく
白くなっています。














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頂上は真っ白で

ガスガスでした。


























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朝9時半頃,二人は吹雪の鳥海山の頂上にいました.
 実に5度目の遠征でようやく頂上に立つことができたのですが,あいにくの新雪・吹雪・視界10m。なかなか微笑んではくれませんでした.






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 下山して駐車場を出発
したのが、正午、
その後、酒田で昼食を摂り、朝日村で温泉に入り、のんびりと帰途を楽しんでいたのですが.









 高速道路に入り、5時半頃でしょうか、白根市を過ぎたあたりで、遥か前方小千谷市の山本山方面(ほぼ震源地の方角)に稲妻が光るのを何度か見ました.同行のYANAさんと「あの下を通って帰るのか、雨が降ってなきゃいいけど」などと話しておりました.
 三条市を過ぎたころでしょうか、ほぼ夕闇に包まれたころ、何度かハンドルをとられました.ちょうど強い横風を受けたような感じです.車は私の車ですがその時運転していたのはYANAさん。
 念のため速度を落とし、走行していると、前の車も減速してます.路肩に止まっている車もあります.そこでようやく気付いて、ラジオのスイッチを入れると、既に地震のニュースが流れていました.

 長岡の街は真っ暗で、(日赤病院は明かりが点いていたようです)高速道路の照明も消えていましたが、電光掲示板だけはちゃんと点いていて.長岡インターで高速を降りるよう指示されてました.インターの出口は長い渋滞になっていて、待っている間にも大きな余震が何度もあり、料金所の屋根がユサユサ・大型バスがユサユサ、余震の度に大きく揺れます.料金所のところは、ちゃんと照明が点いていました.
 国道に出たのは7時半ころだったでしょうか、自動車はほとんど通っていません.信号機も点灯せず、街は真っ暗で静まり返っていました.皆、避難所に移動した後だったのでしょう、ほんとにひっとこ一人いません。 橋を渡る回数が少なくなるよう、信濃川の西岸を小千谷に向かうことにしました.越路町の辺りまで行くと、道路のひび割れや段差で通れない箇所が増えてきました.田んぼのあぜ道を迂回したりしながら街にはいると、皆、歩道に出て毛布をかぶったりしています.まだ余震があるので、家には入れないということでしょう.
 この時自分に言い聞かせてました(起こったことは現実,まず「現況を冷静に正確に把握すること!!」)それまでの疲労感もあり、まだなんとなく「現実感」が薄かったです.

 小千谷に近づくにつれ、段差や盛り土の崩壊、電柱の傾きなどが目立ってきます.坂道の谷側半分は崩れ落ち、電柱は45度くらいまで傾き、電線(電話線?)は私の車の屋根に引っかかりそうなほど(2mくらい?)まで垂れ下がり、路面はあちこちが裂け・・・・どんどん状況が悪くなっていきますが、小千谷市を通り抜けないと津南町に帰れない. 車庫が潰れ、窓が落ち、シャッターが外側にまくれ上がり、石垣が崩れ,屋根の瓦が落・・・・・・・・ひどくなればひどくなるほど、かえって現実感が薄れていくような感じがしました。
 バイパスに入ると、交差点の信号機が倒れて(落ちて)ましたが、不思議なくらい整然と流れてました.クラクションを鳴らしたり、ライトを点滅させたり、大声を出したり、そんな様子は全くありません.皆が譲り合い、極めて整然と流れています.映画のようなパニック状態にはなっていません.(皆、冷静なんだな、注1)と感じました.歩道は大きく陥没し、下水道のものと思われるマンホールだけが異様に飛び出していました.たぶん、砂を沢山使いすぎたのでしょう.助手席に乗っていた私は、デジカメを持っていたのですが,どうしても避難する人たちに向かってシャッターを切ることができませんでした.後から思えば,ちゃんと記録しておいた方が良かったのですが,みんなが必死の時自分だけ安全な場所から眺めているような感じがして(実際は同じ状況なのですが)後ろめたさのようなものを感じて写真は撮りませんでした. 
 対向車に先の様子を聞き、どうやらどの道も通れないと判断しましたが,車で行けるところまで行って、後は歩いて帰ることにしました.山を降りた時点で携帯電話の電池が切れてしまいましたが,車のグローブボックスにグリップ式の発電ライト兼充電器がありましたので、何とか充電して携帯電話を使うことができるようになりました.こちらから自宅に電話をかけてもなかなかつながりませんが,関東に住む姉弟からの電話が通じました.被災地外部からの電話の方がかかり易いようなので,自宅(津南町)にこちらの今後の行動予定を伝えてもらいました.
 高速道路脇の道を通る.盛り土が動いて道路を半分ほど塞いでおり,私の車が通るのにやっとの幅しかない.のろのろと通過する.途中で余震が来たら,左側の田んぼに押し落とされてしまう.段差は1メートル位だからすっぽり埋まってしまうことは無いと思うが、ハラハラドキドキ。陥没部を避けて田んぼの中を迂回しながら池ケ原の下まで辿り着くが、ついに進めなくなる.道路の谷側が崩れ落ち,山側が上から崩れてきた土砂で埋まっている.トラックが谷側に落ちているが中に人の姿は見えない。たぶん助かったようだ.少し戻った道路脇の空き地に車を乗り捨てることにする.田んぼ道を迂回できそうな気もするが,こんな時あまり目立たない山の中に入って何か起こったら,発見されるのが遅くなるので,できるだけメインストリートをはずさずに避難することにする.山の帰りなので,ザック・雨具・食料・水・ツエルト・・一日二日野宿する程度の装備は持っている.荷物を担いで歩き出す.
 闇夜を盛んにヘリコプターが飛び交っている.池ケ原集落に入ると古い製材所の建物が倒壊して道路を塞いでおり、集落の人たちはビニールハウスに避難していた.集落の外れの道路脇にはバスが1台止まっていた.雪峠では消防団の人達が十日町方面から来た車に先に進めない旨を伝えていた.
 私たちは雪峠で、十日町方面に引き返すという人の車に便乗させてもらい、信濃川左岸沿いに十日町に向かう.途中、崩壊箇所を何度か通過し(翌日は通行止めになっていた)何とかYANAさんの家(旧川西町)に辿り着く.奥さんは避難所に避難して留守でした.この時間ほとんどの家では避難所に避難し、家に電話をかけても誰もでない状態が多かったと思います.川西町まで帰ると,道路脇の「電柱がほとんど真っ直ぐ立っています」それを見て私の自宅(津南町)は比較的被害が少ないだろうと予測しました.YANAさんの奥さんの車を借り帰途につく.十日町も真っ暗闇の中に沈み,明かりも・人の姿も・自動車すらほとんど見当たりません.この世から突然人間が消え去ったとしたらあんな感じになるのでしょう。人間の気配がまったく消えた不気味なほどに静まりかえった街並でした.
 23時ころ津南に帰り着き、近所の空き地に車を止めて自宅に帰りました.まだ電気は回復していませんが,当面大きな被害は台所のガラスが1枚割れた程度で怪我は無いということでした.たぶん、最初の地震より大きな余震は来ないだろうから,いつでも逃げ出せる体制で,ひとまず寝ることにしました.24時ころ電気回復する。この頃になると多少の余震が起きても驚かなくなりました.

(注1 後で思ったのですが,この時の皆さんは「我先にとどこかに逃げようとしている人々」ではなく「家族の安否を気遣いながら、(たとえそこが危険な場所であったとしても)家族の元へ急ぐ人」がほとんどだったと思います.だからたぶん「冷静に移動する方法を考えられた(行動できた)」のだと思います.そもそも地震の時、平地の屋外にいたら、(津波の心配さえ無ければ)それ以上逃げていく場所など無いのですから・・・。)

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31gake

 現在でも,場所によっては

その時の傷跡がそのまま残っています.

(長岡市 妙見)









32gake





















(つづく)

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